走る場所を失った一台から始まった、フェラーリのスーパーカーの系譜
Ferrari Club Tokyo の記録には、F40 と F50 が何度も出てきます。この二台の前に、もう一台あります。1984年の GTO です。三台はどれも台数を限って作られましたが、限り方も、生まれた理由も、少しずつ違います。フェラーリ公式サイトの車種のページと年表の記事から、三台を順に見ます。
CHAPTER 1GTO(1984年) 走る場所を失った車
1-1 レースのために作り始めた
GTO は、レースに出るために生まれた車です。公式の年表によれば、国際自動車スポーツ連盟がグループBという規則で新しい選手権を始めると発表したとき、エンツォ・フェラーリは喜んでこの話に乗りました。出るためには、同じ車を200台作って公認を受ける必要があります。
開発を率いたのはマウロ・フォルギエーリです。土台には 308 GTB の足まわりを使い、そこへF1から持ってきた技術を重ねました。エンジンはV8で、排気量は規則に合わせて2,855ccに抑え、ターボを二つ付けています。出力は7000回転で400馬力、最高速は305キロでした。年表は、当時のどの量産車も追いつけない速さだったと書いています。ターボと、吸い込む空気を冷やす装置は、左右の気筒の列に一つずつ。F1の車と同じ並べ方でした。
年表は、エンツォがその年のF1の車よりも、GTO の開発の進み具合のほうを気にしているように見えた、とまで書いています。1984年のスクーデリアの運転手、ルネ・アルヌーとミケーレ・アルボレートも開発に加わりました。車は1983年9月にエンツォが予告し、1984年のジュネーブ・ショーで披露されます。
1-2 選手権が無くなった
ところが、GTO は一度もその選手権を走りませんでした。規則が変わり、グループBそのものが無くなったからです。公式のページは、この章に「選手権のないフェラーリ」という見出しを付けています。レースのための車だけが手元に残りました。
それでも困ることはありませんでした。ジュネーブで見た人たちの反応が大きく、予定の200台は披露の前に売り切れていました。最後には272台が売られています。公式のページによれば、GTO はフェラーリが少ない台数の車づくりへ戻った一台でもありました。その前に台数を限って作った車は、365 カリフォルニアまでさかのぼります。
公式のページは、GTO を「スーパーカーの熱の出発点」と呼びます。台数を限って作る、飛び抜けた性能の車。値段にかかわらず欲しがる人がいる。引き渡しの前に、買う権利が人から人へ移ることも珍しくなかったそうです。1980年代には、ほかの車にも同じことが起きていきます。年表によれば、GTO はフェラーリの歴史で最初の限定車でした。
1-3 「288」は愛称
この車を「288 GTO」と呼ぶ人が多いのですが、公式の名前はただの「GTO」です。公式のページによれば、288 を付けるのは、1960年代の初めにレースで活躍した 250 GTO と区別するための、愛好家の呼び方です。名前そのものが 250 GTO にちなんでいます。
姿は 308 に似ていますが、同じ部品はほとんどありません。骨組みは 308 より長く、エンジンは縦に置かれています。外の板の多くは複合材か樹脂でした。年表は、車体にケブラーを使ったこの車を、新しい複合材で作られた最初の車だと書いています。F1ゆずりの電子制御の燃料噴射を付けた最初の量産車でもありました。骨組みは、フェラーリのいつものやり方どおり、鋼の管を組んで筋交いを入れたものです。そこにエンジンや足まわりを支える枠を足し、人の乗る場所には、転んだときに守る棒が通されました。
形を描いたのはピニンファリーナです。308 GTB の線と、「ミッレキオーディ」の名で知られる空力の試作車がもとになっています。レースには出られなかったけれど、ここで試された作り方が、次の一台へそのまま引き継がれます。
CHAPTER 2F40(1987年) エンツォの最後の一台
2-1 四十周年の車
F40 の名前は、F がフェラーリ、40 が四十周年です。フェラーリの名前の車が最初に走ってから四十年。その祝いに作られました。
披露は1987年7月21日、マラネッロの市民センターでした。公式の年表によれば、その場で900件の注文が集まります。当時の定価は3億8000万リラでしたが、すぐに16億リラで人手に渡るようになりました。
年表は、エンツォがこの車に望んだことを四つの言葉で書いています。無駄がなく、純粋で、極端で、妥協がない。運転の下手な人を助ける電子の仕掛けは、わざと付けませんでした。出来上がった車について聞かれると、エンツォは「本物のフェラーリだ」と答えたそうです。F40 は、エンツォが立ち会って披露した最後の車になりました。エンツォは翌年の1988年8月に亡くなります。
2-2 軽さの作り方
F40 は、GTO の考え方をさらに先へ進めた車です。年表は、308 GTB と、GTO から作られた試作車 GTO エヴォルツィオーネの「極端な進化」だと書いています。
エンジンは90度のV8にターボを二つ。排気量は2936.25cc、出力は7000回転で478馬力です。1リットルあたりおよそ160馬力という数字は、当時の最先端でした。
目を引くのは重さです。乾いた状態で1,100キロしかありません。公式のページによれば、F40 は、車体の板の主な材料に複合材を使った最初のフェラーリの量産車でした。前と後ろをそれぞれ大きな一枚にしたので、板は全部で十一枚しかありません。鋼の管の骨組みにケブラーの板を貼り合わせ、ふつうの車の三倍のねじれにくさを得ています。
形はピニンファリーナ。技師ニコラ・マテラッツィの設計をもとに作られました。低い鼻先、大きな後ろの翼、空気の取り入れ口。年表は、レースの出であることを隠そうとしない姿だと書いています。公式のページは、屋根の輪郭と横腹の黒い筋にだけ 308 の面影が遠く残り、あとはすべて新しい形だと説明しています。材料も新しく、形も新しい車でした。
2-3 1311台
性能は、いま見ても並外れています。最高速は324キロ。止まった状態から時速100キロまで4.1秒。400メートルを11.9秒、1000メートルを20.9秒で走り抜けます。足まわりは、速さに合わせて高さを三段に変えられました。
何台作るかは、はじめは決まっていませんでした。公式のページによれば、客は台数も知らないまま、小切手を手に列を作ったそうです。生産が終わったのは1992年。マラネッロの工場を出た F40 は、全部で1311台でした。GTO の272台と比べると、五倍近い数です。それでも足りなかったようで、公式のページは、作り終えたあとの中古の値段がおよそ100万ユーロに届いたと書いています。
ここが GTO との違いです。GTO は200台という公認の数から始まり、売れたので少し増えました。F40 は祝いの車として始まり、欲しい人がいるあいだ作り続けました。同じ「限られた車」でも、限り方が違います。
特別な一台もあります。ジャンニ・アニェッリのために作られた「F40 ヴァレオ」です。年表によれば、クラッチを自動で切る仕掛けを付け、内装の布は赤ではなく黒でした。
CHAPTER 3F50(1995年) 道を走るF1
3-1 「売れる数より一台少なく」
F50 は、F40 の後を継ぐ車として1995年のジュネーブ・ショーで披露されました。公式のページによれば、自動車メーカーとしての五十年を祝う車です。ただし実際の五十年より、少し早く出ています。
その場で、社長のルカ・ディ・モンテゼーモロはこう言いました。作るのは349台だけ。売れると見込んだ数より、一台少なくする、と。公式のページは、これを「ふつうでない、とても勇気のいる発言」と書いています。1990年代の初めは、車が売れない時期でした。その中で、あえて数を絞ると言い切ったわけです。
F40 では、欲しい人がいるあいだ作り続けました。F50 では、欲しい人の数よりわざと少なく作ると、最初に宣言しています。台数を限ることが、後から付いた結果ではなく、最初からの約束になりました。この考え方は、そのあとのスーパーカーにも引き継がれていきます。
3-2 F1のエンジンを載せる
前の二台はターボ付きのV8でしたが、F50 はターボの無いV12です。排気量は4,698cc。公式のページによれば、前の二台より五割以上も大きいエンジンで、8500回転で520馬力を出します。一つの気筒に弁が五つあります。年表は、石油会社の広告の文句を引いています。4本のカムの軸が一分に4,300回まわり、60の弁が一秒に70回開く。そのくらい忙しいエンジンでした。
このV12は、F1の車のエンジンがもとです。年表は、ナイジェル・マンセルとアラン・プロストが乗った 640 と 641 の12気筒を、3,500ccから大きくしたものだと書いています。一方、車種のページは、アレジとベルガーが使ったエンジンから直接来たものだと書いています。公式の二つの文で、名前の挙がる運転手が違います。F1の12気筒が土台であることは、どちらも同じです。
F1との近さはエンジンだけではありません。骨組みは炭素繊維の一体型。エンジンそのものが骨組みの一部になり、後ろの足まわりがそこに直接付いています。F1の車と同じ作りです。前の足まわりは、1980年代のF1の車 126 C にならっています。材料も、炭素繊維、チタン、マグネシウムと、当時のF1で使われていたものが並びます。変速機は縦置きの六段でした。
3-3 風の中で二千時間
形は、今回もピニンファリーナです。ただし公式のページは、F50 の線はほかのどのフェラーリともあまり似ていないと書いています。似ているのは、横腹の黒い筋と、丸い二つ組の尾灯くらいです。後ろの翼は F40 よりさらに大きくなりました。
理由は空気です。年表によれば、F50 の形を決めるのに、風洞の試験を2,000時間かけています。車体の下で空気の流れを使って車を地面に押し付け、曲がるときの横向きの力は1.4Gに達しました。最高速は325キロです。公式のページは、F50 のあらゆる部品が、五十年のグランプリの経験から来ていると書いています。車体も、材料も、空気の使い方も、足まわりも、F1で覚えたことの応用でした。
| 項目 | GTO | F40 | F50 |
|---|---|---|---|
| 披露 | 1984年 | 1987年 | 1995年 |
| エンジン | V8 ターボ、2,855cc | V8 ターボ、2936.25cc | V12、4,698cc |
| 出力 | 400馬力 | 478馬力 | 520馬力 |
| 最高速 | 305キロ | 324キロ | 325キロ |
| 台数 | 272台 | 1311台 | 349台 |
三台を並べると、順番が見えてきます。GTO は、レースの規則のために作って、走る場所を失った車。F40 は、祝いのために作って、望まれるまま1311台になった車。F50 は、349台と最初に決めて、そのとおりに作った車。フェラーリが「限られた車」の作り方を覚えていく十年あまりが、この三台に入っています。
SOURCES出典
- Ferrari 公式サイト「Ferrari GTO (1984)」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/gto(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1984 First of a Kind」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1984/first-of-a-kind(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「Ferrari F40 (1987)」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/f40(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1987 Enzo's Dream」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1987/enzos-dream(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「Ferrari F50 (1995)」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/f50(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1995 F1 in a Road Car」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1995/f1-in-a-road-car(2026-10-02 確認)
この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や台数などの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と車名は、各社の商標です。