走る人から走らせる人へ、そして作る人へ。公式の記録でたどる九十年
エンツォ・フェラーリは、最初から自動車会社の社長だったわけではありません。はじめはアルファロメオの運転手で、次に他人の車を走らせるチームの主になり、自分の名前の車を作ったのは五十歳に近づいてからでした。フェラーリ社の年次報告書と、公式サイトの年表の記事をもとに、その順番をたどります。
CHAPTER 1走る人から、走らせる人へ
1-1 モデナの生家
エンツォ・フェラーリは1898年、モデナで生まれました。生家はいまも残っていて、その家を囲むように建てられたのが、モデナのエンツォ・フェラーリ博物館です。財団ができたのは2003年、開館は2012年3月10日でした。
博物館の説明は、エンツォの人生を三つの時期に分けています。レースの魅力に取りつかれた少年の時期。運転手として走った時期。そして、スクーデリアを率い、のちに自分の車を作る人になった時期です。この記事も、その三つの順に進みます。
- 1898モデナで生まれる
- 1924この年から、アルファロメオの運転手
- 1929スクーデリア・フェラーリを作る
- 1939自分の会社を作る。名前はアウト・アヴィオ・コストゥルツィオーニ
- 1943年の終わりに、本拠をマラネッロへ移す
- 1947125 S が、フェラーリの名前の車で最初の勝ちを挙げる
- 1951F1で最初の勝ち。相手はアルファロメオ
- 1956息子のディーノが亡くなる
- 1969フィアットが50%を持つ
- 1972フィオラノのコースが開く
- 19888月14日に亡くなる
生家の横に立つ新しい展示館は、ロンドンの建築家ヤン・カプリツキーの最後の大きな仕事でした。柱のない5,000平方メートルの展示の場を覆う屋根は、1950年代のレーシングカーのボンネットから形を取っています。真っ白な館内は50分ごとに映写の部屋に変わり、壁と天井いっぱいに、エンツォの九十年が映し出されます。
生家の部屋のいくつかは、いまも見学できます。工房を兼ねた家でした。エンジンの展示もここにあります。モデナの町の中に、会社ではなく「人」のための博物館が一つある。それが、マラネッロの博物館との違いです。
1-2 アルファロメオの人
フェラーリ社の年次報告書は、沿革の最初にこう書いています。エンツォ・フェラーリは1924年からアルファロメオの運転手だった、と。会社の名前のもとになった人の経歴は、他社の運転手として始まります。
公式の年表は、もう少し詳しく書いています。エンツォはアルファロメオで、テストの運転手であり、ワークスの運転手であり、やがてレース部門の長になりました。運転手から監督へ。戦前のアルファロメオの勝利の多くは、エンツォが関わった車によるものでした。
ここで大事なのは、エンツォがアルファロメオを内側から知り尽くしていたことです。のちに自分の車を作るとき、目標はただ一つ、そのアルファロメオに勝つことでした。年表の記事は、エンツォの野心をそのとおりに書いています。相手の強さを一番よく知る人が、相手を倒す車を作ろうとしたわけです。
1-3 1929年11月16日
1929年、エンツォは自分のレースチームを作ります。スクーデリア・フェラーリです。フェラーリの公式の記事によれば、設立は1929年11月16日、場所はモデナでした。年次報告書は、はじめはアルファロメオの車を走らせるためのチームだったと書いています。
チームは早くから結果を出しました。二戦目にあたる1930年6月のトリエステ・オピチーナで、タツィオ・ヌヴォラーリが勝っています。その後もミッレ・ミリア、タルガ・フローリオと、勝ちを重ねていきました。公式の記事は、このチームを「設立のときからイタリアと世界のレースの主役だった」と書いています。
チームを持つということは、運転手を選び、車を整え、どのレースに出るかを決める側に回るということです。モデナの博物館の説明は、この時期のエンツォを「スクーデリアの頭脳」と呼んでいます。自分で走ることから、人と車を組み合わせて勝たせることへ。力の置き場所が移っていきました。
チームの車に跳ね馬の印が付いたのは1932年、スパの24時間レースでした。車はアルファロメオ 8C 2300 スパイダーです。この時点で、盾に入った馬はもうありました。まだ無かったのは、フェラーリという名前の車のほうです。エンツォはまだ「走らせる人」で、「作る人」ではありませんでした。
CHAPTER 2自分の名前の車
2-1 1939年の会社、1943年のマラネッロ
年次報告書の沿革は、次の節目を短く二つ並べています。1939年、エンツォは自分の会社を作った。はじめの名前はアウト・アヴィオ・コストゥルツィオーニだった。そして1943年の終わりに、本拠をモデナからマラネッロへ移した。マラネッロは、いまも本社のある場所です。
つまり、最初の会社の名前に「フェラーリ」は入っていませんでした。いまの社名とマラネッロという土地が結びつくのは、この引っ越しからです。
戦争が終わりに近づいた1945年の半ば、エンツォは技師ジョアッキーノ・コロンボに、まったく新しい車の設計を頼みます。公式の年表によれば、エンツォにとって車の心臓はエンジンでした。選ばれたのは12気筒です。型式の「125」は一気筒あたりの排気量を指し、12を掛けると全体でおよそ1,500ccになります。設計はやがてジュゼッペ・ブッソに引き継がれ、ルイジ・バッツィが仕上げを手伝いました。出力は6,800回転で120馬力の少し手前まで上がります。車の骨組みは鋼の管で組まれ、作ったのはミラノのジルコという会社でした。航空機向けの強い鋼管を得意にしていた会社です。エンツォの注文は「固く、しかし軽く」でした。
2-2 1947年3月12日
1947年3月12日、マラネッロと隣町フォルミジーネのあいだの田舎道に、エンジンの音が響きました。まだ車体を載せていない125が、初めて走った日です。公式の年表は、この日を「フェラーリの冒険が始まった日」と書いています。
二か月後の5月11日、125 S はピアチェンツァのサーキットで初めてレースに出ました。運転したのはフランコ・コルテーゼです。先頭を走っていましたが、燃料ポンプが壊れて止まります。エンツォはこの初戦を、のちに「見込みのある失敗」と呼びました。
失敗は14日しか続きませんでした。5月25日、ローマ・グランプリ。カラカラ浴場のまわりの並木道を使ったコースを40周、合わせて137.6キロ。コルテーゼの125 S は平均時速88.5キロで走り切り、フェラーリの名前の車で最初の勝ちを挙げます。この年、125 S は合わせて六つのレースに勝ちました。その一つは、ヌヴォラーリが運転したパルマのレースです。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 車と運転手 | 125 S、フランコ・コルテーゼ |
| 周回 | 40周 |
| 距離 | 137.6キロ |
| 平均の速さ | 時速88.5キロ |
2-3 「私は母を殺した」
エンツォの目標はアルファロメオに勝つことでした。その日は1951年7月14日、イギリスのシルバーストンで来ます。
アルゼンチンの運転手ホセ・フロイラン・ゴンザレスが、フェラーリ 375 で先頭からスタートし、同じアルゼンチンのファン・マヌエル・ファンジオが乗るアルファロメオ 159 を抑え切りました。90周を2時間42分18秒。二位との差は50秒でした。公式の年表によれば、375 は 159 より燃料を食わず、給油の回数が少なくて済んだことも効いています。これがフェラーリのF1での最初の勝ちです。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 勝った車 | フェラーリ 375、ゴンザレス |
| 二位の車 | アルファロメオ 159、ファンジオ |
| 周回 | 90周 |
| 時間 | 2時間42分18秒 |
| 二位との差 | 50秒 |
エンツォはこの日のことを、自分の本にこう書き残しました。ゴンザレスのフェラーリが初めてアルファの全員を後ろに置いたとき、うれしくて泣いた。けれどその涙には痛みも混じっていた。あの日、私は思った。私は母を殺した、と。
母とは、アルファロメオのことです。育ててくれた会社に、自分の名前の車で勝った。喜びと痛みを同じ一文に書く人でした。
CHAPTER 3晩年のエンツォ
3-1 ディーノの死と、フィアット
1956年6月30日の土曜日、息子のディーノが亡くなりました。筋ジストロフィーとの闘いの末でした。公式の年表は、葬儀がフランス・グランプリと同じ日曜日だったこと、エンツォの心はそのあと長いあいだ別の所にあったことを書いています。
会社のほうでは、レースの費用を一人で背負い続けることが難しくなっていました。年表によれば、1963年にはフォードへ売る寸前まで行きます。交渉は4月から5月まで続きましたが、エンツォは署名の直前に手を引きました。レース部門の自由を手放したくなかったからです。
それでも強い味方は必要でした。1965年にはフィアットと組んで、6気筒のディーノのエンジンを作る取り決めを結びます。そして1969年6月18日、エンツォとジャンニ・アニェッリがトリノで契約に署名し、三日後の6月21日に発表されました。フィアットがフェラーリの50%を持つことになります。年次報告書によれば、この割合はエンツォの死後、1988年に90%へ上がり、残りの10%は息子のピエロ・フェラーリが持ちました。
3-2 自分の庭のサーキット
フィアットとの取り決めで、お金の心配は無くなりました。エンツォが次に作ったのは、自分のテストコースです。
それまで使っていたモデナのサーキットは、安全の面から使える時間が限られていました。エンツォは工場の近く、フィオラノ・モデネーゼの町に接する農地に、自前のコースを作ることにします。土地はもう会社のものでした。工事は1971年に始まり、1972年4月8日に開きます。公式の年表によれば、これでフェラーリは、自分のテストコースを持つただ一つのF1チームになりました。
長さは3キロ。直線は1339メートル、曲がりの合計は1661メートルです。エンツォはもっと長い直線を望みましたが、土地が許しませんでした。曲がりは、当時のグランプリの難しい箇所を写して作られています。レースに使うコースではなく、試すためのコースだったので、はじめから観客は入れず、走れるのは一度に一台だけでした。
3-3 1988年
最後の年の様子は、公式の年表にくわしく残っています。
1988年1月14日、エンツォはマラネッロの町役場で、モデナの古いスクーデリアの本拠を取り壊す書類に署名しました。2月1日にはモデナ大学から物理学の名誉学位を受けます。これが公の場に出た最後でした。
九十歳の誕生日は、本人の指示で、役所の人を呼ばない「家族の集まり」になりました。家族とは、給料をもらっている人たちのことです。およそ1700人が生産ラインにテーブルを並べて食事をし、F40 の模型と銀の記念メダルを受け取りました。F40 は、エンツォが自分で送り出した最後の車です。前の年の1987年7月21日、会社の40周年を祝って発表されていました。
その数週間後に体調が崩れます。6月にローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が工場を訪れたときも、電話で話すことしかできませんでした。8月14日の朝7時、エンツォは自宅で亡くなります。90歳と178日でした。本人の言いつけどおり、知らせは葬儀が済んだ翌日の朝8時すぎまで伏せられました。
一か月ほどあと、モンツァのイタリア・グランプリで、フェラーリの二台が一位と二位に入ります。その年ほとんどのレースに勝っていたマクラーレンが、二台とも止まった日でした。
SOURCES出典
- Ferrari N.V.「2025 Annual Report and Form 20-F」(会社の沿革の章)
https://ferrari.scene7.com/is/content/ferrari/Ferrari_Annual_Report_2025?s(2026-10-02 確認) - Ferrari Magazine「90 Legendary Years」(2019年6月10日)
https://www.ferrari.com/en-EN/magazine/articles/90-years-legendary-museum-maranello(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「Museo Enzo Ferrari Modena」
https://www.ferrari.com/en-EN/museums/enzo-ferrari-modena(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1947 First Victory」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1947/first-victory(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1951 First F1 Win」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1951/first-f1-win(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1956 Fangio Champion」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1956/fangio-champion(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1969 A New Partner」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1969/a-new-partner(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1972 Home Track」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1972/home-track(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1987 Enzo's Dream」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1987/enzos-dream(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1988 Day of Farewell」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1988/day-of-farewell(2026-10-02 確認)
この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や台数などの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と車名は、各社の商標です。