中間の町の食堂で始まり、社内のデザイン部門へ引き継がれるまで
フェラーリの形といえば、長いあいだピニンファリーナでした。250 GT も、デイトナも、テスタロッサも、F40 も、描いたのはトリノのこの会社です。ところが、いまのフェラーリはピニンファリーナの名を付けていません。いつ、どう変わったのか。「決裂」という言葉で語られることもありますが、フェラーリ自身の資料に書かれていることを、順に拾っていきます。
CHAPTER 1トルトーナの食堂
1-1 それまでは、いろいろな車体屋が作っていた
はじめのころのフェラーリには、決まった「顔」がありませんでした。フェラーリが作るのは骨組みとエンジンで、車体は外の車体屋が載せていたからです。
年次報告書は、その名前を並べています。車の形について、フェラーリは昔から、カロッツェリア・トゥーリング、ヴィニャーレ、スカリエッティ、ピニンファリーナといったイタリアの車体屋に頼ってきた、と。
その様子がよく分かるのが、212 インテルです。公式のページによれば、この車は、フェラーリの中でも車体の種類がいちばん多い一台でした。ギア、ヴィニャーレ、トゥーリング、スタビリメンティ・ファリーナ、そしてピニンファリーナ。同じ車体屋の中でも、一台ごとに形がかなり違いました。イギリスの会社が載せた、あまり格好の良くない幌付きの車まであったそうです。スタビリメンティ・ファリーナが最後に車体を載せたのも、この 212 インテルの骨組みでした。
その 212 インテルについて、公式のページは一行を添えています。この車から、ピニンファリーナとの長い付き合いが始まった、と。
1-2 1951年、中間の町で
付き合いの始まりは、一度の昼食でした。フェラーリの公式の記事によれば、1951年、エンツォ・フェラーリは、車体の会社を起こしたバッティスタ・「ピニン」・ファリーナと会っています。
場所は、トルトーナという町の小さな食堂でした。フェラーリの本拠モデナと、ピニン・ファリーナの本拠トリノの、ちょうど中間にあたります。なぜそんな所で会ったのか。記事は理由を書いています。どちらも、相手の土地へ出向いて「地元の有利」を渡したくなかったからです。
ただし、仲が悪かったわけではありません。記事は、二人が互いの仕事と力をとても尊重していた、と書いています。意地の張り合いというより、対等な相手として会うための場所選びでした。
話し合いはうまく運びました。その場で、歴史に残る取り決めができます。これから先、フェラーリの形にかかわることは、すべてピニン・ファリーナが受け持つ、というものでした。
1-3 帰りの車の中で
この話には続きがあります。同じ席に、ピニンの息子セルジオがいました。公式の記事は、セルジオ本人の思い出を引いています。
席にいたのは四人。エンツォ・フェラーリと、フェラーリの側の一人、父、そして自分。帰りの車の中で、父がこう言ったそうです。「フェラーリのことは、お前がやるんだ」。セルジオが聞き返すと、父は続けました。「全部だ。形も、計画も、費用も、生産も」。セルジオは、学校を出たばかりの若者でした。
セルジオが父から会社を継いだのは1961年です。同じ1961年に、名前も変わっています。公式の年表によれば、この年、イタリアの大統領の命令で、一家の名字を「ピニンファリーナ」と一語に改めることが認められました。それまでは「ピニン・ファリーナ」と二語で書かれています。古い車の説明で二通りの書き方が出てくるのは、このためです。
公式のページによれば、ピニンファリーナが最初にフェラーリに載せた車体は、ヴィニャーレの派手な作品と比べると、いくぶん控えめなものでした。けれどそれが、フェラーリの車に「そろった顔」を与える始まりになります。道を走る車の数が増えていく時期でした。
CHAPTER 2六十年の線
2-1 250 GT ベルリネッタ
取り決めのあと、公式の記事が最初に挙げる車は、1950年代の終わりの 250 GT ベルリネッタです。記事は、この形が現れたときの衝撃を「宇宙から来た車を見るようだったに違いない」と書いています。
中身はコロンボが設計した3リットルのV12で、およそ280馬力。止まった状態から時速62マイルまで七秒でした。記事は、これが1959年の話だと念を押しています。いまこの車は、世界でいちばん高く、いちばん求められる車の一つです。
大事なのは、形だけの仕事ではなかったことです。セルジオが父から言われたのは、形と、計画と、費用と、生産でした。描くだけでなく、どう作るか、いくらで作るかまでを含めた付き合いです。フェラーリが、レースのための小さな工房から、道を走る車を数多く作る会社へ育っていく道のりに、ピニンファリーナはずっと付き添いました。
記事は、そのあとに続く車を「本当に象徴的な車の列」と呼んでいます。フェラーリの技術の力と、ピニンファリーナの官能的な線が合わさって生まれた、と。
2-2 デイトナ、512 BB、テスタロッサ
次の大きな飛躍として記事が挙げるのは、1968年のパリのショーで披露された 365 GTB/4、通称デイトナです。記事によれば、この車はフェラーリの形を根本から変えました。跳ね馬の目印だった楕円の格子が無くなり、空気の流れを第一に考えた形になります。前の明かりは、四角いふたの下に収められました。
1970年代には、1976年の 512 BB があります。記事は、この車の後ろ姿に注目しています。左右に丸い明かりを二つずつ並べる形が、フェラーリで初めて現れた車でした。いまではフェラーリの後ろ姿の決まりごとになっている並べ方です。
そして次の十年に、スポーツカーの見た目そのものを変えた一台が出ます。テスタロッサです。記事は、大人が買いたがり、子どもが部屋の壁に貼りたがった車だと書いています。ピニンファリーナの作品の中でも、ひと目でそれと分かる形の一つでした。
1987年の F40 も、ピニンファリーナです。年表によれば、技師ニコラ・マテラッツィの設計をもとに、ピニンファリーナが形にしました。
2-3 一度だけの例外
長い付き合いのあいだに、例外が一度だけあります。1973年のディーノ 308 GT4 です。
公式のページは、この車の説明をこう始めています。二十年にわたるピニンファリーナとの付き合いのあとで、フェラーリはベルトーネが描いたV8の車を披露した、と。年表も、ピニンファリーナではなくベルトーネが描いたのは、1953年からこのかた初めてだったと書いています。
理由について、公式のページはベルトーネの側の話を引いています。フィアット・ディーノのクーペを描いたのがベルトーネだったので、フィアットの勧めで話が来た、というものです。年表は、フェラーリがベルトーネの鋭い線の仕事に感心し、ディーノの印を使って幅を広げようとした、と説明しています。
この例外は、一度きりで終わりました。次のV8、308 GTB を描いたのはピニンファリーナです。そのあとも、1997年の 550 マラネッロ、F430 と、ピニンファリーナの仕事が続きます。公式の記事は、550 マラネッロを、二十五年たっても古びない形として挙げています。
CHAPTER 3自分で描く会社へ
3-1 2010年、社内にデザインの部門ができる
変わり目は、年次報告書にはっきり書かれています。2010年、フェラーリは社内に自前のデザイン部門を作りました。フェラーリ・デザイン・センターです。
報告書は、目的を二つ挙げています。形を作る仕事の全体を、自分の手でしっかり握ること。そして、フェラーリらしい形が、長く途切れずに続くようにすること。
仕事の範囲も書かれています。デザイン・センターは、道を走るフェラーリのすべてについて、外の形も、付いている部品も、内装も受け持ちます。「フェラーリ・デザイン」という名前と印は、この部門の作品を表すものになりました。
報告書の別の章には、会社が抱える危うさとして、こんな一文もあります。客は、走りだけでなく見た目でもフェラーリを買っている。新しい車の形が客の好みに合わなければ、売れ行きに響くおそれがある、と。形は、外に任せておくには大事すぎるものになっていました。
3-2 一緒に描いた最後の車
部門ができても、ピニンファリーナとの仕事はすぐには終わりませんでした。
2012年の F12 ベルリネッタについて、公式の年表はこう書いています。フェラーリのデザイン・センターが、ピニンファリーナと組んで描いた、と。フェラーリの公式の記事のほうは、ピニンファリーナがフェラーリのデザイン・センターと並んで描いた、と書いています。どちらが主かの書き方は違いますが、二つの名前が並んでいる点は同じです。エンジンは6.3リットルのV12で730馬力。時速200キロで123キロの押さえつける力を生む、その時点でマラネッロでいちばん空気の扱いがうまい車でした。
翌年の2013年、ラ・フェラーリが出ます。年表の説明に出てくるのは、フェラーリのデザイン・センターの人たちと、設計と開発の技師たちです。ピニンファリーナの名は出てきません。
そして F12 の後を継いだ 812 スーパーファストの公式のページには、一言こうあります。フェラーリのデザイン・センターが描いた、と。六十年あまり並んでいた二つの名前のうち、一つだけが残りました。
| 車 | 描いた名前として出てくるもの |
|---|---|
| F12 ベルリネッタ(2012年) | フェラーリのデザイン・センターと、ピニンファリーナ |
| ラ・フェラーリ(2013年) | フェラーリのデザイン・センター |
| 812 スーパーファスト | フェラーリのデザイン・センター |
3-3 「決裂」と呼べるのか
ここで、最初の問いに戻ります。これは「決裂」だったのでしょうか。
フェラーリ自身の資料を読むかぎり、けんか別れを示す記述は見当たりません。書かれているのは順番です。2010年に社内の部門を作る。2012年に一緒に描く。2013年からは自分たちだけで描く。急に切れたのではなく、数年かけて引き継がれた形になっています。
- 1951エンツォとピニン・ファリーナが、トルトーナの食堂で会う
- 1959250 GT ベルリネッタ
- 1961セルジオが会社を継ぐ。名字が「ピニンファリーナ」と一語になる
- 1968365 GTB/4(デイトナ)がパリで披露される
- 1973ディーノ 308 GT4。このときだけベルトーネが描く
- 1976512 BB
- 1987F40
- 1997550 マラネッロ
- 2010フェラーリが、社内にデザインの部門を作る
- 2012F12 ベルリネッタを、二社が並んで描く
- 2013ラ・フェラーリは、社内だけで描く
理由として公式に書かれているのは、年次報告書の二つの目的だけです。全体を自分で握ることと、形を長く続かせること。それ以上の事情、たとえばお金の話や人の話は、今回あたった資料には出てきません。分からないことは、分からないままにしておきます。
むしろ、フェラーリの公式の記事がいまもピニンファリーナを「形の名人」と呼んで、長い記事を載せていることのほうが目を引きます。記事は、1951年の昼食から F12 ベルリネッタまでを、誇らしげにたどっています。
トルトーナの食堂で、二人は相手の土地へ出向くことを嫌い、中間の町を選びました。対等な二つの会社として始まった付き合いは、片方が自分で描く力を持ったところで、静かに役目を終えた。資料から言えるのは、そこまでです。
SOURCES出典
- Ferrari Magazine「Pure Pinin: Master of Design」
https://www.ferrari.com/en-EN/magazine/articles/pure-pinin-master-of-design(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「212 Inter」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/212-inter(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1963 Le Mans, Italy」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1963/le-mans-italy(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「Dino 308 GT4」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/dino-308-gt4(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1973 Dino 308 GT4 Arrives」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1973/dino-308-gt4-arrives(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「308 GTB」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/308-gtb(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1987 Enzo's Dream」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1987/enzos-dream(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「2012 Performance and Design」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/2012/performance-and-design(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「2013 Extreme Innovation」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/2013/extreme-innovation(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「812 Superfast」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/812-superfast(2026-10-02 確認) - Ferrari N.V.「2025 Annual Report and Form 20-F」(デザインの章)
https://ferrari.scene7.com/is/content/ferrari/Ferrari_Annual_Report_2025?s(2026-10-02 確認)
この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や台数などの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と車名は、各社の商標です。