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NOTES 14

ミッレ・ミリア。千マイルを一日で走ったレース

1927 年のブレシアから、1957 年の最後の速さのレース、そしていまの「走る博物館」まで

ミッレ・ミリアは、イタリア語で「千マイル」。北イタリアのブレシアを出てローマまで行き、またブレシアへ戻る、ふつうの道を使ったレースでした。速さを競ったのは 1927 年から 1957 年までの 24 回です。フェラーリはそのうち 8 回を勝ちました。主催者の公式サイトの記録と、フェラーリの公式の年表を読み合わせて、このレースの歩みをたどります。

CHAPTER 11927 年、ブレシアから

1-1 四人の男と、マイルという単位

ミッレ・ミリアの始まりには、四人の名前が出てきます。ジョヴァンニ・カネストリーニ、フランコ・マッツォッティ、アイモ・マッジ、レンツォ・カスタニェート。主催者の公式サイトは、この四人を「四銃士」と呼んでいます。

公式サイトは、始まりの話には伝説のもやがかかっている、と断ったうえで、いちばん知られていて確かな話として、カネストリーニの証言を挙げています。1926 年 12 月 2 日、ミラノのカネストリーニの家を、ブレシアから来た一行が訪ねました。マッツォッティ、マッジ、カスタニェートと、友人が一人です。

その場で、のちのミッレ・ミリアになる考えが話されました。名前を思いついたのはマッツォッティだとされています。「コッパ・デッラ・ミッレ・ミリア」。距離をキロメートルではなく、マイルで数える言い方を持ち込んだのは、このときが初めてでした。

出発と到着の町は、最初からブレシアです。公式サイトは、1927 年の第一回から、ブレシアがこのレースの出発点であり、到着点であり続けたと書いています。

四人のうちカスタニェートは、ブレシアの自動車クラブの責任者として、長さ 1,600 キロメートルにおよぶ大きな催しの手綱を握りました。公式サイトは、気むずかしい人だったが、だれからも高く買われていた、と書いています。

1-2 最初のレース

最初のミッレ・ミリアは、1927 年 3 月 26 日の朝 8 時に始まりました。最初に出ていったのは、アイモ・マッジとビンド・マセラティの乗るイゾッタ・フラスキーニです。

公式サイトは、このレースを、どしゃ降りの雨と、霧と、舗装していない道の土ぼこりの中の長い戦いだったと書いています。途中のペルージャでは、勝つと見られていたアルファロメオが止まりました。

翌 27 日の夜明け、ブレシアの町じゅうが起き出します。だれも思っていなかった早さで、車が帰ってきたからです。朝 6 時 2 分すぎ、大勢の人が到着の線で車を迎えました。

勝ったのは、ブレシアの会社 OM の 665 に乗った、ナンド・ミノイアとジュゼッペ・モランディです。かかった時間は 21 時間 4 分 48 秒。平均の速さは時速 77.238 キロメートルでした。

小さな車の記録も、人を驚かせました。排気量 750 立方センチメートルの組では、小さなプジョーが勝っています。全部を走り切るのに 34 時間足らず、平均は時速 48.087 キロメートルでした。新聞は、これまで知らなかった自由の時代が開いた、と書いたそうです。

1-3 何のためのレースだったか

公式サイトは、1927 年のカネストリーニの言葉を引いています。ミッレ・ミリアのねらいの一つは、ふつうに売られている車で、いまある国の道を、速く、安全に、乱れなく走れると示すことだ、と。

言葉は続きます。だから自分たちの務めは、このレースに、技術の面と、社会の面と、そして旅の面での役目を持たせることである、と。レースのための特別な車と特別な道ではなく、売っている車と、ふだんの道。そこがサーキットのレースとの違いでした。

当時の新聞「コリエーレ・デッラ・セーラ」の文も引かれています。二十時間あまり、一昼夜にも満たない時間で、イタリアの半分の道を走り抜けた。自動車は、時間と空間を従える者として通っていった、と。

町も、レースと一緒に変わりました。公式サイトによると、カスタニェートは、ブレシアの町を旗と明かりで飾り、広場に、出走の前の車に封印をする式の場を設け、町の通りに順位を示す板を立てました。伝書鳩のミッレ・ミリアまで開かれたそうです。

その結果、ブレシアは一週間のあいだ、世界の自動車の都になりました。公式サイトは、それこそカスタニェートが望んだことだったと書いています。レースは、車のためだけでなく、町のための催しでもありました。

CHAPTER 2アルファロメオの時代から、フェラーリの時代へ

2-1 戦前は、アルファロメオのレースだった

FIGURE速さを競った 24 回の、勝った車の銘柄(公式サイトの勝者の表から数えた)
アルファロメオ11
フェラーリ8
メルセデス・ベンツ2
OM1
BMW1
ランチア1

主催者の公式サイトには、1927 年から 1957 年までの勝者の表があります。その表で勝った車の銘柄を数えると、いちばん多いのはアルファロメオの 11 回です。

アルファロメオが最初に勝ったのは 1928 年でした。そこから 1938 年まで、1931 年を除いて毎年勝っています。1931 年に勝ったのは、ドイツのメルセデス・ベンツでした。

表には、勝った車の平均の速さも載っています。1930 年、タツィオ・ヌヴォラーリのアルファロメオは、時速 100.45 キロメートルで走りました。平均が時速 100 キロメートルを超えたのは、表の中でこの年が最初です。ヌヴォラーリは 1933 年にも勝っています。

1932 年と 1933 年に勝った車は、アルファロメオ 8C 2300 スパイダーです。フェラーリの公式の記事によると、1932 年に跳ね馬の印を初めて付けたのも、この型の車でした。当時のスクーデリア・フェラーリは、アルファロメオの車を走らせるチームだったからです。

戦争のあと、1947 年にレースが戻ったときも、勝ったのはアルファロメオでした。乗っていた一人は、クレメンテ・ビオンデッティです。この人が次の年、フェラーリに乗り換えます。

2-2 1948 年から、六年続けて

TABLEフェラーリが勝った 8 回(公式サイトの勝者の表から)
年乗った人車平均の速さ
1948ビオンデッティ、ナヴォーナ166 S121.227
1949ビオンデッティ、サラーニ166 MM131.456
1950G. マルツォット、クロザーラ195 S123.209
1951ヴィロレージ、カッサーニ340 アメリカ121.822
1952ブラッコ、ロルフォ250 S128.591
1953マルツォット、クロザーラ340 MM142.347
1956カステロッティ290 MM137.442
1957タルッフィ315 S152.632

フェラーリの最初の勝ちは 1948 年です。車をつくりはじめて二年目でした。フェラーリの公式の年表は、1948 年から六年続けて勝ったと書いています。

このレースは、車の名前にもなりました。1948 年 9 月のトリノのショーで発表された 166 MM の MM は、ミッレ・ミリアの頭文字です。年表によると、その年の 5 月の勝利にちなんで付けられました。

1950 年に勝ったのは、ジャンニーノ・マルツォットです。織物の会社の家の人で、背広にネクタイという、ふだんの服のままで走りました。この年は雨のレースで、出走は 375 台。13 時間 40 分を走って勝ったとき、マルツォットは 22 歳でした。年表は、ミッレ・ミリアのいちばん若い勝者だと書いています。

年表には、こんな話も残っています。レースの前に車を試したマルツォットは、前に乗った車より走らないと気づき、エンツォ・フェラーリにたずねました。答えは、若いドライバーの身を守るために、整備の責任者がエンジンの力を絞っておいた、というものでした。レースの本番では、力は元に戻されています。

マルツォットは 1953 年にも勝ちました。車は 340 MM。年表によると、平均の速さは時速 142 キロメートルを超え、それまでの記録を塗り替えています。

2-3 1957 年、最後のレース

1954 年と 1955 年は、ほかの銘柄が勝ちました。1954 年はランチア、1955 年はメルセデス・ベンツです。1955 年の平均の速さは時速 157.6 キロメートルでした。勝者の表の中で、1940 年を除いていちばん速い数字です。1940 年の欄には 166.723 とあります。ただこの年は、ブレシアとローマのあいだの時間の欄が空になっています。

フェラーリは 1956 年に勝ちを取り戻します。そして 1957 年。フェラーリの公式の年表は、この年をエンツォ・フェラーリにとってとても苦しい年だったと書いています。

勝ったのはピエロ・タルッフィでした。このレースに 13 回出て、一度も勝てなかった人です。51 歳になっていた彼は、レースの前の日、勝ったら引退すると妻に約束していました。エンツォはその約束を知って心を動かされ、315 S を用意します。

5 月 12 日の午後、ボローニャで給油したとき、タルッフィは二位で、疲れ切っていました。エンツォは走り続けるよう励まします。前を行く仲間の車には不具合が出ていたからです。タルッフィは勝ち、約束どおり引退しました。

けれどもその同じ日、レースの終わり近く、マントヴァのそばで、フェラーリの 335 S のタイヤが破れ、車は道を飛び出しました。乗っていた二人と、見ていた九人が亡くなっています。そのうち四人は子どもでした。年表は、こう結んでいます。レースは禁じられた。ほかにないレースが終わり、一つの時代も終わった、と。

CHAPTER 3走る博物館として

3-1 1977 年の再出発

TIMELINEミッレ・ミリアの歩み
  1. 192612 月 2 日、ミラノで考えが話される
  2. 19273 月 26 日、最初のレースが始まる
  3. 1948フェラーリが初めて勝つ。ここから六年続けて勝つ
  4. 1957速さを競う最後のレース
  5. 1977古い車のための催しとして、よみがえる
  6. 1987この年から、毎年 5 月に開かれる
  7. 2004ブレシアに、ミッレ・ミリアの博物館が開く
  8. 2013ブレシアの自動車クラブの会社が、じかに運営するようになる

速さを競うレースが終わって二十年あと、ミッレ・ミリアは形を変えて戻ってきます。公式サイトは、1977 年を「よみがえり」の年としています。

新しいミッレ・ミリアは、速さを競いません。公式サイトの言い方では、正確に走ることを競う、古い車のための催しです。公式サイトは、もとのレースとはまったく違う性格の催しだと、はっきり書いています。

始めたのは、ブレシアの古い車の愛好家たちでした。公式サイトによると、彼らはブレシアの自動車クラブから許しをもらい、お金の上の危険はすべて自分たちで引き受けて、再現の催しを開いています。

はじめのころは、毎年ではありませんでした。1984 年と 1986 年は二年おきに開かれ、1987 年から毎年 5 月の催しになります。

その 1987 年に勝ったのは、F1 のドライバーのアレッサンドロ・ナニーニでした。公式サイトは、職業のドライバーがこの催しに勝ったのは、いまのところこの一度だけだと書いています。

3-2 世界じゅうから、ブレシアへ

よみがえったミッレ・ミリアは、すぐに大きくなりました。公式サイトは、数を挙げています。出発するのは、世界じゅうから来た 300 台。申し込みは 600 を超え、取材に来る人はおよそ 1,500 人でした。

1988 年が、変わり目だったと公式サイトは書いています。それまでは、手伝いの人たちに支えられた二年おきの催しでした。毎年開くためには、決まった人が働く、決まった組織が要るようになります。

名前は、外国にも広がりました。1991 年には、アメリカに「ミッレ・ミリアのアメリカの友」というクラブができ、カリフォルニアで催しを開くようになります。1992 年からは、日本で「ラ・フェスタ・ミッレ・ミリア」という催しが続いています。1996 年には、アルゼンチンで昔のレースが再開されました。

2004 年には、ブレシアの古い修道院に、ミッレ・ミリアの博物館が開きました。公式サイトによると、愛好家の集まりが、修道院の修復と博物館の準備のお金を出しています。ブレシアの自動車クラブは、自分が持つミッレ・ミリアの記録の文書を、博物館で使えるようにしました。

運営する会社は、何度か替わっています。2013 年からは、ブレシアの自動車クラブが全部を持つ会社、1000 Miglia Srl が、催しの運営と、名前と印の管理をじかに行っています。

3-3 赤い矢印と、フェラーリ

ミッレ・ミリアの印は、白い字の入った赤い矢印です。もともとは、レースの道すじを示すための目印でした。描いたのはカスタニェートです。

公式サイトは、こう書いています。カスタニェートは、自分の描いた印が、新しい千年紀になっても「世界でいちばん美しいレース」を示し続けるとは、思いもしなかっただろう、と。イタリア語でこの矢印は「フレッチャ・ロッサ」と呼ばれ、レースそのものの呼び名にもなりました。

道すじは、いまも昔の道をなるべくそのままたどっています。公式サイトは、申し込みは年ごとに増えているが、道すじは少しの変更を除いていつも同じだと書き、この催しを「走る博物館」と呼んでいます。

フェラーリとの縁も続いています。フェラーリの年次報告書によると、「フェラーリ・トリビュート・トゥ・ミッレ・ミリア」という催しがあり、いまのフェラーリの車が、本番の車より先に同じ道を走ります。

1948 年、フェラーリは車をつくりはじめて二年目に、このレースを勝ちました。その勝ちが車の名前になり、車が売れ、会社が育ちました。速さを競うレースは 1957 年に終わりましたが、赤い矢印の道を、赤い車はいまも走っています。

SOURCES出典

  1. 1000 Miglia 公式サイト「1926: the idea takes shape」
    https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/how-the-1000-miglia-was-born/(2026-10-02 確認)
  2. 1000 Miglia 公式サイト「1927: the first 1000 Miglia」
    https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/1927-the-first-1000-miglia/(2026-10-02 確認)
  3. 1000 Miglia 公式サイト「1927-1957: the roll of honour」
    https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/the-roll-of-honour-1927-1961/(2026-10-02 確認)
  4. 1000 Miglia 公式サイト「Brescia, city of the 1000 Miglia」
    https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/brescia-city-of-the-1000-miglia/(2026-10-02 確認)
  5. 1000 Miglia 公式サイト「1977: the renaissance of the Freccia」
    https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/the-renaissance-of-the-freccia/(2026-10-02 確認)
  6. 1000 Miglia 公式サイト「1987: The 1000 Miglia returns every year」
    https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/from-1987-1000-miglia-comes-back-every-year/(2026-10-02 確認)
  7. Ferrari 公式サイト History「1948 Launch of 166 MM」
    https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1948/launch-of-166-mm(2026-10-02 確認)
  8. Ferrari 公式サイト History「1950 A Red Mille Miglia」
    https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1950/a-red-mille-miglia(2026-10-02 確認)
  9. Ferrari 公式サイト History「1953 Sportscar Champions」
    https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1953/sportscar-champions(2026-10-02 確認)
  10. Ferrari 公式サイト History「1957 Last Mille Miglia」
    https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1957/last-mille-miglia(2026-10-02 確認)
  11. Ferrari N.V.「2025 Annual Report and Form 20-F」
    https://ferrari.scene7.com/is/content/ferrari/Ferrari_Annual_Report_2025?s(2026-10-02 確認)

この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や台数などの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と車名は、各社の商標です。

CONTRIBUTOR山岸 勇輝Yuuki YAMAGISHI

独立研究者(Independent Researcher)。公式の資料や統計など、一次の資料にあたって書くことを続けている。

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