スクーデリア・フェラーリは、アルファロメオのレース部門だった。二つの博物館の記録を読み合わせる
フェラーリの歴史は、アルファロメオの歴史の中から始まります。エンツォ・フェラーリはアルファロメオのドライバーで、販売店の主で、やがてレース部門そのものを任された人でした。その人が 1939 年にアルファロメオを去り、八年後に自分の名前の車をつくります。アルファロメオの博物館が書いている記録と、フェラーリの公式の記録の両方から、二つの会社の関係をたどります。
CHAPTER 1アルファロメオの人
1-1 ドライバーで、販売店の主で
フェラーリの年次報告書は、会社の沿革をこう始めています。エンツォ・フェラーリは、1924 年からアルファロメオのドライバーだった、と。
アルファロメオの博物館は、もう少し広く書いています。エンツォはアルファロメオのドライバーであり、販売店の主でもありました。受け持ったのは、エミリア=ロマーニャ州とマルケ州です。のちには、その地域でただ一つの代理店になっています。
博物館は別の記事で、こうも書いています。エンツォは、アルファロメオの本社の上の階にも、大きな影響力を持つ人だった、と。走るだけの人でも、売るだけの人でもありませんでした。
フェラーリの公式の年表も、同じことを書いています。エンツォはアルファロメオで、車を試すドライバーであり、会社のチームのドライバーであり、レース部門の長でもあった。世界のサーキットで大きな成功を収めた車を育てた、と。
アルファロメオの博物館には、エンツォが乗った車が残っています。RL タルガ・フローリオです。1924 年のシチリアのレース、タルガ・フローリオで、エンツォが自分で運転した車だと博物館は説明しています。
1-2 1929 年 11 月 16 日の会社
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 設立 | 1929 年 11 月 16 日、モデナ |
| 会社の形 | 株式会社(Società Anonima Scuderia Ferrari) |
| 資本金 | 200 千リラ |
| 株 | 200 株。うち 50 株がエンツォ・フェラーリ |
| 目的 | アルファロメオのレースの車を買い、国内のレースに出ること |
1929 年 11 月 16 日、エンツォはモデナにスクーデリア・フェラーリという会社を作りました。アルファロメオの博物館は、お金の出どころを、エンツォ自身のお金と、個人の出資者たちのお金だったと書いています。
会社の目的は、文書に残っています。アルファロメオの銘柄のレースの車を買い、その車で、国のレースの予定表にあるレースに出ること。博物館は、こうしてスクーデリアが、事実上アルファロメオのレース部門になったと書いています。
仕事は、レースだけではありませんでした。腕のあるドライバーをレースに出すほかに、外の会社への助言と、車の販売も手がけています。1932 年から 1934 年にかけては、ラッジとノートンのオートバイでレースにも出ました。フォードの車とトラクターの販売と整備までしています。
最初のレースは、1930 年のミッレ・ミリアでした。博物館によると、結果は棄権の連続です。このレースを支配したのは、アルファロメオ本社のチームでした。
フェラーリの公式の記事は、その次のレースを書いています。二度目のレースだった 1930 年 6 月のトリエステ・オピチーナで、タツィオ・ヌヴォラーリが勝ちました。そこから、勝ちが重なっていきます。
1-3 跳ね馬は、アルファロメオの車に付いた
跳ね馬の印が初めて車に付いたのは、1932 年です。ベルギーのスパ・フランコルシャン 24 時間レースでした。
付いた車は、フェラーリではありません。アルファロメオ 8C 2300 です。このことは、フェラーリの公式の記事も、アルファロメオの博物館も、バラッカの博物館も、同じように書いています。
バラッカの博物館は、理由も書いています。馬の印を勧められたころ、エンツォはアルファロメオのドライバーで、自分の車を持っていなかった。だから印を付けることができなかった。1929 年にスクーデリアを作り、1932 年 7 月 9 日になって、ようやくスクーデリアのアルファロメオに印が付いた、と。
その車は、いまアルファロメオの博物館にあります。2019 年、スクーデリアの九十年を祝うとき、アルファロメオの博物館はこの車をモデナの催しに出し、そのあとマラネッロのフェラーリ博物館の展示に貸し出しました。
フェラーリの公式の記事によると、マラネッロのその展示は、このアルファロメオの車から始まっていました。フェラーリが自分の歴史を語るとき、最初に置く一台は、よその会社の車なのです。
CHAPTER 2レース部門になり、そして離れる
2-1 1933 年の転機
アルファロメオの博物館は、スクーデリア・フェラーリにとっての転機を 1933 年としています。きっかけは、アルファロメオの側の事情でした。
この年、アルファロメオは国の持ち物になります。自動車の業界全体を襲ったお金の危機のあとのことでした。新しい総支配人のウーゴ・ゴッバートのもとで、ミラノのポルテッロの工場は、仕事を大きく組み替えます。航空機のエンジンと、大きな車をつくる会社になっていきました。
そうなると、レースは、技術者と工場の手を取られる仕事になります。そこでアルファロメオは、レースの運営をスクーデリア・フェラーリに任せることにしました。エンツォは、レースと販売の相談役に任じられます。
スクーデリアは、モデナにあったおかげで、かなり自由に動けました。はじめは整備だけでしたが、すぐに車の研究と開発にも手を広げます。1934 年から始まる新しい規則に向けた仕事でした。
取り決めの下書きができたのは 1934 年です。アルファロメオは決まった数のレースの車をつくり、スクーデリアは決められたレースの全部に出る。取り決めは 1936 年に更新され、スクーデリアの自由はさらに広がりました。博物館は、このころのスクーデリアを、本当のアルファロメオのレース部門と見てよい、と書いています。
2-2 モデナとミラノの距離
ところが、その自由が問題になっていきます。アルファロメオの博物館は、理由を二つの面から書いています。
一つは、成績です。当時の政府は、レースを宣伝として使おうと後押ししましたが、アルファロメオにお金は出しませんでした。相手はドイツの銘柄で、そちらはドイツの政府の支えを受けていました。グランプリで、アルファロメオは追う側に回りました。
もう一つは、距離です。1937 年、取り決めは改められ、スクーデリアは総支配人にじかに報告することになりました。それでも成績は上がりません。経営陣から見ると、レースをじかに見ることができず、ミラノとモデナの遠さが、レースの運営と車の開発の足を引っぱっていました。
1937 年 12 月 30 日の取締役会で、ゴッバートは発表します。スクーデリアの株の 80 パーセントを買い取る、と。
会社はたたまれました。道具も、人も、ポルテッロの新しい建物に移されます。その部門に付いた名前が、アルファ・コルセです。エンツォは、その部門の相談役になりました。自分のチームの主から、大きな会社の一部門の相談役へ。立場は、はっきり変わりました。
2-3 1939 年、アルファロメオを去る
- 1924この年から、アルファロメオのドライバー
- 1929スクーデリア・フェラーリをモデナで設立する
- 1932スパ 24 時間で、アルファロメオ 8C 2300 に跳ね馬が付く
- 1933アルファロメオが、レースの運営をスクーデリアに任せる
- 1937アルファロメオが、スクーデリアの株の 80 パーセントを買うと発表する
- 1939エンツォがアルファロメオを去る
- 1947フェラーリの名前の車ができる
- 1951フェラーリが、F1 で初めてアルファロメオに勝つ
エンツォは、1939 年にアルファロメオを去りました。博物館は、理由を二つ挙げています。自分で決める自由を失ったこと。そして、設計の責任者になったばかりのスペイン人の技術者、ウィフレード・リカルトと、とても仲が悪かったことです。
そのすぐあと、アルファ・コルセもなくなりました。レースの仕事は、実験の部門に移されています。
エンツォは、スクーデリアをたたんで得たお金を持って、モデナに戻りました。そして新しい会社を作ります。アウト・アヴィオ・コストルツィオーニです。
会社の名前に、フェラーリが入っていません。理由は、アルファロメオの博物館が書いています。アルファロメオとの取り決めで、エンツォは少なくとも四年のあいだ、スクーデリアを作り直すことができませんでした。博物館は、「新しい」フェラーリができたのは 1947 年になってからだった、と結んでいます。
そのあいだに、エンツォは一つの型の車をつくっています。815 です。印は、アウト・アヴィオ・コストルツィオーニでした。博物館によると、つくられたのは二台。一台はモデナの貴族のドライバー、ロターリオ・ランゴーニ・マキャヴェッリが買い、1940 年のミッレ・ミリアを走りました。もう一台を買ったのは、アルベルト・アスカリです。
CHAPTER 3母を倒す
3-1 相手は、勝てなかった赤い車
戦争が終わり、エンツォは自分の名前の車をつくりはじめます。そのとき、目の前にいたいちばん強い相手が、アルファロメオでした。
ミッレ・ミリアの勝者の表を見ると、移り変わりが分かります。戦争のあとの最初のレース、1947 年に勝ったのはアルファロメオです。その次の年、1948 年に勝ったのはフェラーリでした。両方の車に乗っていたのが、クレメンテ・ビオンデッティです。
F1 では、もっと時間がかかりました。1950 年に世界選手権が始まります。フェラーリの最初のレースは、モナコのグランプリでした。フェラーリの公式の年表によると、このレースは、アルファロメオ 158 に乗るファン・マヌエル・ファンジオが、最初から最後まで支配しています。フェラーリのアスカリは二位でしたが、一周の遅れでした。
エンツォは、この結果にはっきり不満でした。年表は、エンツォが新しい車と、もっと力のあるエンジンの開発を急がせたと書いています。
相手の強さを、エンツォはだれよりもよく知っていました。アルファロメオのレースの車を育てる部門を、かつて自分が率いていたからです。年表は、当時のアルファロメオを「それまで追いつけなかった」車と呼んでいます。
3-2 1951 年 7 月 14 日、シルバーストン
その日は、1951 年 7 月 14 日の土曜日に来ました。場所は、イギリスのシルバーストンです。
フェラーリ 375 に乗るアルゼンチンのホセ・フロイラン・ゴンザレスが、いちばん前からスタートし、同じアルゼンチンのファンジオが乗るアルファロメオ 159 を抑え切りました。90 周を走り、二位との差は 50 秒。これが、フェラーリの F1 での最初の勝ちです。
年表は、勝った理由の一つを書いています。375 は 159 より燃料を使わず、給油の回数が少なくて済み、給油そのものも早く終わりました。
エンツォは、この日のことを自分の本に書いています。ゴンザレスのフェラーリが、初めて 159 とアルファのチーム全員を後ろに置いたとき、私はうれしくて泣いた。けれどもその涙には、痛みの涙も混じっていた。あの日、私は思った。私は母を殺した、と。
年表は、言葉の意味を説明しています。母とは、もちろんアルファロメオのことだ。そこでエンツォは、ドライバーであっただけでなく、レース部門の長として、勝つ車を育てたのだから、と。育ててくれた会社に、自分の名前の車で勝つ。喜びと痛みが、一つの文に入っています。
3-3 二つの博物館が、同じ話を書いている
そのあとも、二つの会社の道は何度か交わります。
1969 年、フィアットがフェラーリの半分を持つことになったとき、話の途中にアルファロメオが出てきます。フェラーリの公式の年表によると、当時のアルファロメオが加わりたがり、三社の取り決めになりそうな時期がありました。けれども最後に、アルファロメオは手を引いています。
ミッレ・ミリアでも、二つの名前は並びます。速さを競った 24 回のうち、アルファロメオが 11 回、フェラーリが 8 回を勝ちました。1968 年には、アルファロメオが新しい車の発表に合わせて、このレースを再現する催しを開いています。
そして 2019 年。スクーデリア・フェラーリの九十年を、アルファロメオの博物館は自分のこととして祝いました。催しの題は「アルフィスタのフェラーリ」。アルファロメオの人としてのエンツォ、という意味です。博物館は、エンツォが運転した RL と、跳ね馬が初めて付いた 8C 2300 を、モデナに持っていきました。
フェラーリの側も、同じ車を自分の展示の先頭に置きました。アルファロメオの博物館は、スクーデリアを自分たちのレース部門だったと書き、フェラーリの記事は、同じチームを自分たちの始まりとして書いています。
エンツォは、アルファロメオを母と呼びました。二つの博物館の記録を並べると、その言葉が飾りでなかったことが分かります。フェラーリは、アルファロメオの外にできた会社ではなく、アルファロメオの中から出ていった会社でした。
SOURCES出典
- Museo Storico Alfa Romeo「Scuderia Ferrari」
https://www.museoalfaromeo.com/en-us/news/Pages/Scuderia-Ferrari.aspx(2026-10-02 確認) - Museo Storico Alfa Romeo「Scuderia Ferrari: 90 years」
https://www.museoalfaromeo.com/en-us/news/Pages/90-anni-Scuderia-Ferrari.aspx(2026-10-02 確認) - Museo Storico Alfa Romeo「The Museo Alfa Romeo will be celebrating Ferrari the 'Alfista' at the Motor Valley Fest」
https://www.museoalfaromeo.com/en-us/news/Pages/Tributo-Enzo-Ferrari-.aspx(2026-10-02 確認) - Ferrari N.V.「2025 Annual Report and Form 20-F」
https://ferrari.scene7.com/is/content/ferrari/Ferrari_Annual_Report_2025?s(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「90 Legendary Years」
https://www.ferrari.com/en-EN/magazine/articles/90-years-legendary-museum-maranello(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1951 First F1 Win」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1951/first-f1-win(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1950 Debut in F1」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1950/debut-in-f1(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1969 A New Partner」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1969/a-new-partner(2026-10-02 確認) - Museo Francesco Baracca「Il Cavallino Rampante」
https://www.museobaracca.it/il-cavallino-rampante/(2026-10-02 確認) - 1000 Miglia 公式サイト「1927-1957: the roll of honour」
https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/the-roll-of-honour-1927-1961/(2026-10-02 確認) - 1000 Miglia 公式サイト「1987: The 1000 Miglia returns every year」
https://1000miglia.it/en/history-of-1000-miglia/from-1987-1000-miglia-comes-back-every-year/(2026-10-02 確認)
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