ランチアの置きみやげ、ディーノのエンジン、1969 年の署名、そして 2016 年の分離
フェラーリは、1969 年から 2016 年のはじめまで、フィアットのグループの会社でした。けれども二つの会社の付き合いは、それよりずっと前に始まり、分かれたあとも続いています。エンツォ・フェラーリとジャンニ・アニエッリ。モデナとトリノ。フェラーリの公式の年表と年次報告書から、五十年あまりの関係をたどります。
CHAPTER 11969 年より前
1-1 アニエッリの最初のフェラーリ
フィアットとフェラーリの話は、会社と会社の前に、人と人から始まっています。フィアットを持つ家の人、ジャンニ・アニエッリは、フェラーリの客でした。
フェラーリの公式の年表によると、アニエッリの最初のフェラーリは、1948 年の 166 MM です。車体をトゥーリングが載せた 166 MM は 25 台しかつくられず、その一台がアニエッリのものになりました。
年表は、アニエッリをフェラーリの車の大の愛好家だったと書いています。166 MM のあとにも、365 P、テスタロッサのスパイダーなどを持ちました。1987 年の F40 でも、自分だけの仕様の一台をつくらせています。クラッチを自動で切る仕掛けを付けたその車は、「F40 ヴァレオ」として知られています。
アニエッリが会社の中で力を持つのは、少しあとです。年表によると、1950 年には 29 歳で、まだ経営の力は持っていませんでした。それでも、会社の株の多くを持つ家の代表です。1963 年に経営の責任者になり、三年あとに会長になりました。
フィアットの側には、もう一人、エンツォを高く買っていた人がいます。ヴィットリオ・ヴァレッタです。年表は、ヴァレッタが 1932 年からエンツォに感心していて、その気持ちはお互いさまだった、と書いています。
1-2 ランチアの置きみやげ
二つの会社の最初の共同の仕事は、ランチアにかかわるものでした。
ランチアがレースから手を引くことになったとき、その車や部品や運ぶ車が、外国に渡るおそれがありました。年表によると、フィアットはイタリアの自動車クラブと一緒に動いて、ランチアのレース部門の持ち物が、ただでフェラーリに渡るようにしました。イタリアの会社の秘密と技が、外国で使われないようにするためです。
フィアットは、お金も出しました。返さなくてよいお金を、一年に 50 百万リラ、五年のあいだ。合わせて 250 百万リラです。年表は、当時としてはとても大きな額だったと書いています。ねらいは、フェラーリが国際レースでもっと勝ち、イタリアの自動車の産業全体の名を上げることでした。
時期については、年表の二つの記事で書き方が違います。1969 年の項は、最初の共同の仕事は 1950 年にさかのぼる、と書いています。1956 年の項は、ランチアの持ち物がトリノでフェラーリに引き渡されたのは 1955 年 7 月 26 日だった、と書いています。ここでは両方をそのまま並べておきます。
引き渡された物の中には、F1 の車 D50 が六台ありました。年表によると、ランチアはこの車の力を引き出しきれませんでしたが、スクーデリア・フェラーリの手に渡ると、車は期待に応えはじめます。1956 年、ファン・マヌエル・ファンジオは、この D50 で世界王者になりました。
1-3 ディーノのエンジン
次の共同の仕事は、エンジンです。
年表によると、エンツォは、レースのお金を一人で背負い続けることはできないと分かっていました。1963 年には、フォードに会社を売る寸前まで行き、署名の直前で手を引いています。強い味方がほしいという気持ちは、そのあとも変わりませんでした。
1965 年、フェラーリはフィアットと取り決めを結びます。フェラーリが設計した 6 気筒のディーノのエンジンを、トリノのフィアットの工場でつくる、というものです。
理由は、レースの規則でした。フェラーリの公式のページによると、1967 年の F2 では、エンジンは市販の車のものがもとでなければならず、一年に 500 基以上つくられていることが条件でした。当時のフェラーリに、そんな数はつくれません。
そこでフィアットがエンジンをつくり、自分の会社の上級の車に積みました。その車が、フィアット・ディーノです。同じエンジンはフェラーリにも渡され、ディーノ 206 GT になりました。フィアットの車も、フェラーリの車も、同じ「ディーノ」の印を付けています。年表は、このあと、エンツォとアニエッリのあいだで、会社を引き受ける話が出る回数が増えていった、と書いています。
CHAPTER 2半分ずつの時代
2-1 トリノでの署名
- 1948ジャンニ・アニエッリが、最初のフェラーリ 166 MM を買う
- 19557 月 26 日、ランチアのレース部門の持ち物がフェラーリに渡る
- 1965ディーノのエンジンをフィアットの工場でつくる取り決め
- 19696 月 21 日、フィアットがフェラーリの 50 パーセントを買ったと発表される
- 1988エンツォが亡くなり、フィアットの持ち分が 90 パーセントになる
- 20031 月 24 日、ジャンニ・アニエッリが亡くなる
- 201510 月、フェラーリがニューヨークの取引所に上場する
- 20161 月 3 日、フィアットのグループからの分離が終わる
1969 年 6 月 18 日、エンツォ・フェラーリとジャンニ・アニエッリは、トリノで会って契約に署名しました。発表は三日あとの 6 月 21 日です。フィアットが、フェラーリの 50 パーセントを買いました。
話は、まっすぐには進みませんでした。年表によると、途中でアルファロメオが加わりたがり、三社の取り決めになりそうな時期があります。最後にアルファロメオは手を引き、二社で話がまとまりました。
年表は、この日のことをこう書いています。フィアットとフェラーリは力を合わせ、とても長い付き合いの始まりを祝った、と。
買い取られた、という書き方はしていません。年表の題は「新しいパートナー」です。フェラーリの年次報告書も、フィアットのグループが 1969 年に 50 パーセントを取得した、と事実だけを書いています。
エンツォにとって大事だったのは、レースを自分で決められることでした。フォードとの話を断ったのも、レースの部門の独立を守るためだったと年表は書いています。フィアットとの取り決めは、その点でエンツォが受け入れられるものだった、ということになります。
2-2 お金の心配がなくなって
取り決めの効き目は、すぐに表れました。
年表は、1972 年の項にこう書いています。お金の面では、フィアットとの取り決めで、フェラーリには何の心配もなくなっていた、と。エンツォがその次に作ったのが、自分たちだけの試験コースです。フィオラーノのコースは、1972 年 4 月 8 日に開きました。
車づくりにも、フィアットの影が見えます。1973 年のディーノ 308 GT4 は、形をベルトーネが描きました。フェラーリの公式のページは、ベルトーネの側の話として、フィアットの勧めがあったからだと書いています。フィアット・ディーノのクーペを描いたのが、ベルトーネだったためです。
ディーノの車そのものが、フィアットとの付き合いから生まれたものでした。フィアットがつくるエンジンがあったから、フェラーリは初めて、流れ作業の列で組み立てる、数の出る車を持てました。
レースのことはエンツォが決め、道を走る車ではフィアットの力を借りる。年表の記事を並べていくと、この時期のフェラーリには、その二つの面が見えてきます。
年次報告書は、その先を一行で書いています。1988 年、エンツォ・フェラーリが亡くなったあと、フィアットは持ち分を 90 パーセントに増やした。残りの 10 パーセントは、息子のピエロ・フェラーリが持った、と。
2-3 同じグループの中の、ランチア
同じグループの中にいることは、いつも都合がよいとは限りませんでした。ラリーの話に、その例があります。
1970 年代のラリーで強かったランチア・ストラトスは、フェラーリのディーノのエンジンと駆動の部品を使った車でした。SKF の記事が、そう書いています。フェラーリのエンジンが、同じグループのランチアの車を走らせていたことになります。
1982 年、フェラーリ 308 GTB グループ4 は、イタリアのラリー選手権を戦っていました。乗っていたのはトニーノ・トニャーナです。フェラーリの公式の年表によると、トニャーナは最後の二戦を、フェラーリではなくランチア 037 で走っています。
Girardo & Co. の解説は、その事情をこう説明しています。フィアットがラリーでいちばん大事にしていたのはランチアで、グループの中に、はっきりした利害のぶつかりがあった。チームがトニャーナにランチアを割り当てたので、タイトルの手柄は二つの銘柄に分けられた、と。
解説は、エンツォがこれにひどく怒ったと伝えられる、とも書いています。ただしこれは「伝えられる」話で、フェラーリの公式の年表には出てきません。公式の年表が書いているのは、この年、308 がドライバーと製造者の両方のタイトルをとった、ということです。
CHAPTER 3離れる日と、そのあと
3-1 2003 年、アニエッリを送る
2003 年 1 月 24 日、ジャンニ・アニエッリが亡くなりました。82 歳の誕生日まで、あとひと月あまりでした。
フェラーリの公式の年表は、アニエッリを、フェラーリの歴史の中の大事な一人と呼んでいます。この年の F1 の新しい車は、彼をしのんで F2003-GA と名付けられました。GA は、ジャンニ・アニエッリの頭文字です。
その年の F1 は、歴史に残るきびしい戦いでした。年表によると、ミハエル・シューマッハとフェラーリは、最後のレースまで争って、ドライバーとチームの両方のタイトルをとっています。F2003-GA は、スペインのグランプリで初めて走り、その日に勝ちました。
シューマッハにとっては六回目の世界王者で、ファンジオの数を超えました。チームのタイトルは、通算で 13 回目になりました。アニエッリの名前を付けた車は、勝った車として残りました。
1948 年に最初のフェラーリを買った人が、五十五年あと、F1 の車の名前になった。客として始まった付き合いが、どこまで深くなったかを、この名前が表しています。
3-2 2016 年、分かれる
| 時期 | フィアットの側 | フェラーリの家の側 |
|---|---|---|
| 1969 年 | フィアットのグループが 50 パーセント | |
| 1988 年 | フィアットのグループが 90 パーセント | ピエロ・フェラーリが 10 パーセント |
| 2016 年 1 月 | グループから分離。株はグループの株主に配られる | 10 パーセントを新しい持株会社に移す |
| 2026 年 2 月 | エクソールが株の 21.33 パーセント | ピエロ・フェラーリの信託が 10.67 パーセント |
フェラーリがフィアットのグループから離れたのは、2016 年のはじめです。年次報告書によると、分離が終わったのは 2016 年 1 月 3 日でした。このころ、グループの名前は FCA になっています。
分離は、いくつかの手続きを組み合わせたものでした。グループが持っていた 90 パーセントと、ピエロ・フェラーリの 10 パーセントを、新しい持株会社に移す。2015 年 10 月に、ニューヨークの取引所で株を売り出す。そして、グループに残っていた株を、グループの株主たちに配る。
2016 年 1 月 4 日には、ミラノの取引所にも上場しました。年表によると、その朝、会長のセルジオ・マルキオンネは、ジョン・エルカーンとピエロ・フェラーリに礼を言っています。1969 年に、互いへの敬意をもとに手を握った二人、ジャンニ・アニエッリとエンツォ・フェラーリの後を継ぐ人たちとして、です。
年表は、分離の意味をこう書いています。フィアットのグループから分かれたことで、フェラーリは、グループの中でずっと持っていた独立を、正式な形にできた、と。
マルキオンネは、2018 年に亡くなりました。年表は、思いがけない、早すぎる死だったと書いています。会長の席は、ジョン・エルカーンが継ぎました。
3-3 いまも続いている線
会社としては分かれましたが、線は切れていません。
年次報告書によると、いまのフェラーリのいちばん大きな株主は、エクソールです。2026 年 2 月 4 日の時点で、株のおよそ 21.33 パーセント、議決権のおよそ 32.32 パーセントを持っています。エクソールの会長はジョン・エルカーンで、フェラーリの会長でもあります。
エルカーンは、かつてのグループの今の姿である、ステランティスの会長でもあります。年次報告書は、FCA が 2021 年 1 月にプジョーの会社と一緒になって、ステランティスになったと書いています。
報告書は、このことを危うさの一つとしても書いています。フェラーリとステランティスのあいだには、取締役や役員の重なりがある。利害がぶつかる場面が出てくるかもしれない、と。昔のつながりを、会社は自分でそのまま書いています。
二番目に大きな株主は、ピエロ・フェラーリの信託です。エクソールとピエロ・フェラーリのあいだには取り決めがあり、株主総会の議題などについて、できるだけ同じ考えにまとまるよう相談することになっています。1969 年にトリノで手を握った二つの家は、形を変えて、いまも同じ会社の株主どうしです。
SOURCES出典
- Ferrari 公式サイト History「1969 A New Partner」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1969/a-new-partner(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1956 Fangio Champion」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1956/fangio-champion(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1948 Launch of 166 MM」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1948/launch-of-166-mm(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「Dino 206 GT」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/dino-206-gt(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1972 Home Track」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1972/home-track(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1973 Dino 308 GT4 Arrives」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1973/dino-308-gt4-arrives(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト「Dino 308 GT4」
https://www.ferrari.com/en-EN/auto/dino-308-gt4(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「1987 Enzo's Dream」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/1987/enzos-dream(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「2003 Remembering Agnelli」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/2003/remembering-agnelli(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「2016 Stock Market Launch」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/2016/stock-market-launch(2026-10-02 確認) - Ferrari 公式サイト History「2018 Farewell Sergio」
https://www.ferrari.com/en-EN/history/moments/2018/farewell-sergio(2026-10-02 確認) - Ferrari N.V.「2025 Annual Report and Form 20-F」
https://ferrari.scene7.com/is/content/ferrari/Ferrari_Annual_Report_2025?s(2026-10-02 確認) - SKF Evolution「The spirit of competition」(2015 年 4 月 1 日)
https://evolution.skf.com/us/the-spirit-of-competition/(2026-10-02 確認) - Girardo & Co.「Guide to the Ferrari 308 GTB Michelotto Group IV and Group B rally cars」
https://girardo.com/features/girardo-co-s-guide-to-the-ferrari-308-gtb-michelotto-group-iv-and-group-b-rally-cars/(2026-10-02 確認)
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