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NOTES 01

跳ね馬は、だれの馬だったのか

騎兵連隊の紋章から戦闘機の胴体へ、そしてスクーデリアの盾へ

フェラーリの跳ね馬(カヴァッリーノ・ランパンテ)は、第一次世界大戦のイタリアの撃墜王、フランチェスコ・バラッカの印だったと言われます。その話は本当ですが、細かく見ると「同じ馬」ではありません。バラッカの生まれた町ルーゴにある博物館の記録をもとに、馬がたどった道を順に追います。

CHAPTER 1馬は、騎兵連隊のものだった

1-1 ルーゴに生まれた騎兵

フランチェスコ・バラッカは、1888年5月9日、エミリア=ロマーニャ州のルーゴに生まれました。父エンリコは地主で、母は伯爵夫人パオリーナ・ビアンコリ。一人息子でした。

子どものころから馬術が好きで、フィレンツェで古典の勉強を終えると、1907年11月にモデナの陸軍学校で騎兵科の生徒になります。あとでフェラーリの町になるモデナが、ここで一度だけ顔を出します。

1909年に少尉に任官すると、配属先は第2連隊「ピエモンテ・レアーレ」でした。博物館の記録によれば、1692年にサヴォイア公が作った連隊で、イタリア陸軍でも指折りの名門です。標語はラテン語で「美しく、大胆に」。この連隊が、馬の出どころになります。

騎兵として過ごしたのは数年でした。1912年、バラッカはフランスへ渡って操縦士の免許を取ります。帰国してからは、ミラノとトリノのあいだに置かれた陸軍の飛行隊に勤めました。馬に乗る将校が、そのまま空へ上がった形です。

1-2 銀の馬、赤い地

ピエモンテ・レアーレの紋章は、赤い地に銀色の跳ね馬でした。馬は左を向き、尾は下がっています。いまのフェラーリの馬とは、色も尾の向きも違います。

第一次世界大戦が始まると、バラッカは戦闘機の操縦士になり、1916年4月7日に最初の一機を落としました。その後、第91飛行隊の指揮を任され、武功の金メダルを受けています。

当時の飛行機には無線がなく、空の上で仲間を見分ける手だては機体の印しかありませんでした。イタリアの飛行士たちのあいだに、自分の機体に目印を描く習慣が生まれます。印はやがて、地上から空中戦を見上げる兵士や、新聞で飛行士の活躍を追う人々にも知られるようになりました。

バラッカが選んだのは、騎兵連隊の馬でした。博物館は理由を二つ挙げています。自分が騎兵の出であることを示すため。そして、馬が好きだったからです。

1-3 黒く塗りかえられた馬

博物館によれば、バラッカが馬を自分の印にしたのは、1916年の終わりから1917年の初めにかけてです。ただし連隊の紋章をそのまま写したのではなく、図柄を変え、色を黒にしました。機体の布の上で、よく目立つようにするためです。

馬が描かれた最初の機体は、ニューポール17でした。記録に残る最初の証言は、1917年5月8日の新聞「イル・レスト・デル・カルリーノ」の記事で、4月26日の8機目の撃墜を伝える中に「跳ねる馬」が出てきます。馬を背にしたバラッカの最初の写真は、同じ年の5月20日に雑誌に載りました。

馬はそのあと、スパッド7、スパッド13へと乗りかえられていきます。迷彩のスパッド13では、白い雲のような地の上に描かれました。博物館は、馬は最初からずっと黒だったことが今では確かめられている、と書いています。1918年4月27日、バラッカは母への手紙にこう書きました。機体と一緒に写った写真を送る、その上にいるのはピエモンテ・レアーレの紋章の馬だ、と。同じ手紙には、飛行隊の印としてはグリフォンを選んだとも書かれています。頭が鷹で体が獅子の、勇ましさの印です。

馬は機体の両側に描かれていましたが、グリフォンが片側に入ってからは片側だけになりました。葬儀に飾られた木の板が、いまも博物館に残っています。バラッカが亡くなるまで宿舎に置いていたもので、そこに描かれた黒い馬は右を向いています。

CHAPTER 2伯爵夫人の一言

2-1 1918年6月19日

1918年6月19日の夕方、バラッカはその日二度目の出撃に飛び立ちました。18時15分、トレヴィーゾに近い基地から、僚機と二機でピアーヴェ川へ向かいます。天気は良くなく、砲撃の煙で見通しも悪い日でした。

モンテッロの丘の南側で、僚機の操縦士はバラッカの機体が急に向きを変えるのを見て、そのあと見失います。次に見えたのは、燃えながら森へ落ちていく何かでした。飛行隊の日誌には、少佐は帰らなかった、地上からの機関銃に撃たれたとみられる、と書かれています。オーストリア側には別の記録があり、偵察機の乗員が落としたとされています。博物館は両方を並べて書いています。

墜落した場所にたどり着けたのは、オーストリア軍が退いたあとの6月24日でした。26日の葬儀には軍の高官が並び、詩人のガブリエーレ・ダンヌンツィオが弔辞を読んでいます。棺は28日の夜おそくに生まれた町ルーゴへ着き、30日の午後、大勢の人に送られて町の墓地に納められました。飛行隊は「バラッカ飛行隊」と呼ばれるようになりました。亡くなった飛行士の名が隊の名になるのは、それまで例のないことでした。

2-2 サヴィオのレースのあとで

ここからがフェラーリの話です。出どころは、エンツォ・フェラーリ自身が1962年に出した回想録「Le mie gioie terribili」です。博物館は、フェラーリの馬の由来が世に知られたのはこの本が出てからだと書いています。つまり、以下の話はエンツォ本人の言葉に拠っています。

1923年、エンツォはラヴェンナの近くで開かれた第1回サヴィオ・サーキットのレースに勝ちました。そのとき知り合ったのが、バラッカの父、エンリコ伯爵です。そのあと母のパオリーナ伯爵夫人とも知り合います。エンツォの回想によれば、ある日、夫人は息子が馬を描いた機体の横に立つ写真を渡して、こう言いました。「フェラーリさん、あなたの車に息子の跳ね馬をお付けなさい。きっと幸運を運びます」。

よく「1923年に馬をもらった」と書かれますが、博物館は慎重です。夫人がその言葉をかけた日付は分かっていない、と明記しています。1923年はレースに勝って父親と知り合った年であって、馬を受け取った年とは限りません。

2-3 すぐには使えなかった

もう一つ、見落とされがちなことがあります。そのころのエンツォは、アルファロメオの操縦士でした。「自分の車」を持っていなかったので、馬をもらっても付ける先がありません。

エンツォが自分のチーム、スクーデリア・フェラーリを作ったのは1929年です。フェラーリの公式の記事は、設立の日を1929年11月16日、場所をモデナと書いています。それもアルファロメオの車を走らせるためのチームでした。二戦目にあたる1930年6月のトリエステ・オピチーナでは、タツィオ・ヌヴォラーリが勝っています。

馬が初めて車に付いたのは、設立からさらに三年あと。1932年7月9日、ベルギーのスパ・フランコルシャン24時間レースで、スクーデリア・フェラーリのアルファロメオが跳ね馬を付けて走りました。フェラーリの公式の記事も、最初に跳ね馬を付けた車はアルファロメオ 8C 2300 スパイダーで、1932年のスパ24時間だったと書いています。

そのあいだ、エンツォとバラッカ家の付き合いは続いていました。エンツォはエミリア=ロマーニャのアルファロメオの販売も受け持つようになり、エンリコ伯爵はアルファロメオを買い続けるお得意さまでした。

CHAPTER 3同じ馬ではない

3-1 尾が上を向いている

スクーデリアの盾に入った馬は、バラッカの馬とそっくり同じではありませんでした。博物館ははっきり書いています。図柄が違い、何より尾が上を向いている、と。

では、あの形はどこから来たのか。博物館が挙げる手がかりは、一冊の小冊子です。1930年、バラッカが落ちた土地ネルヴェーザ・デッラ・バッターリアに慰霊の堂ができたとき、記念の冊子「Per Francesco Baracca sul Montello」が出ました。表紙いっぱいに描かれていたのは、エンリコ・バラッカの紋章です。描いたのはルーゴの画家ジーノ・クロアーリで、署名がはっきり読めます。

クロアーリは画家の自由で、馬の形を変え、尾を上に向けて描きました。博物館によれば、その馬はフェラーリの馬と同じです。図柄も、上がった尾も、盾の形も同じ。だから、エンツォが伯爵夫人の願いをかなえようとして自分のチームの印を決めるとき、クロアーリの馬を手本にしたと考えるのが自然だろう、というのが博物館の見立てです。断定ではなく、見立てとして書かれています。

3-2 黄色はモデナの色

盾の地の黄色は、エンツォが足したものです。黄色はモデナの色でした。黒い馬はバラッカから、黄色い地はエンツォの生まれた町から来ています。

TABLE連隊の紋章と、フェラーリの盾
項目連隊の紋章フェラーリの盾
馬の色銀黒
地の色赤黄
尾の向き下上

馬の絵は、そのあとも一度描き直されています。1945年、エンツォはミラノの若い彫版師エリジオ・ジェローザに跳ね馬を描き直させました。ジェローザは二年あとに、スクーデリア・フェラーリの正式な印も描いています。フェラーリの名前で最初の車が走り出すのと、ちょうど同じ時期です。

つまり、いま目にする馬は、連隊の紋章、バラッカの機体、クロアーリの表紙、ジェローザの描き直しという、少なくとも四つの手を通っています。「バラッカの馬」という言い方は正しいのですが、線の一本一本までバラッカの機体から写したわけではありません。

TIMELINE跳ね馬がたどった道
  1. 1692騎兵連隊ピエモンテ・レアーレができる。紋章は赤い地に銀の馬
  2. 1917バラッカが、黒く変えた馬を自分の機体の印にする(1916年の終わりから1917年の初め)
  3. 1918バラッカが戦死する
  4. 1923エンツォがサヴィオのレースに勝ち、バラッカの父と知り合う
  5. 1929スクーデリア・フェラーリができる
  6. 1930クロアーリが、尾の上がった馬を冊子の表紙に描く
  7. 1932スパ24時間で、馬が初めて車に付く
  8. 1945ジェローザが馬を描き直す

マラネッロのフェラーリ博物館は2019年、スクーデリアの歩みをたどる展示を開きました。その並びの先頭に置かれたのが、1932年のスパで初めて跳ね馬を付けたアルファロメオ 8C 2300 スパイダーです。フェラーリ自身も、馬の物語の始まりをアルファロメオの車に置いています。

3-3 空に残ったほうの馬

馬は車の世界にだけ残ったのではありません。博物館は、跳ね馬はいまもイタリア空軍の大切な印の一つだと書いています。

バラッカの死後、馬は1920年代にはときどき機体に描かれる程度でした。部隊の印として定着するのは1933年です。第4航空団の司令が、かつて第91飛行隊を率いた副官の勧めを受けて、跳ね馬を採りました。精鋭の部隊が採ったことで、馬は空軍の中に広がっていきます。描かれる先は、布から金属へ、そして複合材へと変わりました。

1967年からは、第9航空団がフランチェスコ・バラッカの名を持っています。いまユーロファイターを飛ばしている戦闘機の部隊の紋章にも、バラッカの馬をもとにしたものがあります。曲技飛行隊フレッチェ・トリコローリの無線の呼び名「ポニー」も、バラッカの馬にちなんだものです。博物館によれば、1960年に当時の大尉が曲技の編隊のために選んだ名でした。

車の盾の馬と、空軍の機体の馬。二つは同じ一頭から分かれて、いまも別々の場所で跳ねています。マラネッロの馬だけを見ていると気づきませんが、ルーゴの博物館から見ると、フェラーリは馬の行き先の一つです。

SOURCES出典

  1. Museo Francesco Baracca(ルーゴ市)「Il Cavallino Rampante」
    https://www.museobaracca.it/il-cavallino-rampante/(2026-10-02 確認)
  2. Museo Francesco Baracca「Francesco Baracca」
    https://www.museobaracca.it/francesco-baracca-2/(2026-10-02 確認)
  3. Museo Francesco Baracca「La morte」
    https://www.museobaracca.it/la-morte-2/(2026-10-02 確認)
  4. Ferrari Magazine「90 Legendary Years」(2019年6月10日)
    https://www.ferrari.com/en-EN/magazine/articles/90-years-legendary-museum-maranello(2026-10-02 確認)

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CONTRIBUTOR山岸 勇輝Yuuki YAMAGISHI

独立研究者(Independent Researcher)。公式の資料や統計など、一次の資料にあたって書くことを続けている。

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